出水麓の郷愁風景

鹿児島県出水市<武家町> 地図
 
町並度 8 非俗化度 4 −薩摩を代表する外城(郷士)集落−






 竪馬場通り、出水麓を代表する風景です。左は年寄を務めた税所邸。 薬医門のある小風景があちこちに見られます。
 

 江戸時代の薩摩藩は、鶴丸城を本拠地として各地に多くの「外城」(とじょう)を配置し統治にあたっていた。郷士制度とよばれたこの薩摩独特の政策で、その数は百二外城とも呼ばれるほど多く、しかしながら城郭は設けず各々には地頭を置き、地域の行政・軍事を執り行っていた。破竹の勢いで九州制覇を目論んでいた薩摩軍はかつてより武士の数も極めて多く、秀吉・秀長の出陣に伴って薩摩・大隅・日向の三国に封じ込められますます密度を濃くした。それら膨大な武士群(=郷士)は麓とよばれる一角に集中して住まわせた。外城は武士の駐屯地、屯田兵集落的なもので、外城の中で武家がより固まり住まう一角が麓と呼ばれていた。
 麓集落は現在でもその遺構を残しているものも多く、中でもこの出水麓は最大規模のものと言われている。現代に至っても大きく開発されることなく町割が良く残り、重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
 その規模の大きさは、この出水が肥後に最も近い位置にある要害の地であるため、特に有望な武士団が多数配置されたからであろう。薩摩軍のエネルギーが結集されたような町だったのである。
 この郷士制度は幕府の一国一城令に反するものであった。しかし武士の多さと経済的窮状を訴え黙認されていた。何しろ三人に一人は武士とも言われていたのである。
 出水麓は古城亀ヶ城の山裾に、丘を切開いて作られている。現在の市街地より一段高い位置となっていて、短い坂道を上って麓地区に入る。碁盤の目に仕切られた町割は馬場と呼ばれる辻が縦横に走り、薬医門を構えた武家屋敷が多数存在していた。その一部は今でも残り、邸地の周囲は馬場に面して空積の玉石垣が連続し、生垣を添えた景観は美しい。薩摩以外の多くの武家街と同様、屋敷自体は粗末だったらしくほとんど残っていないが、曖(あつかい・郷士年寄のこと)を勤めた税所邸、その隣には二棟連結型といわれる典型的な武家建築を持つ竹添邸が無料で公開され、それらの並ぶ竪馬場通りは出水麓を代表する町並景観であった。
 郷士たちは主に農業に従事しながら大工・左官・鍛冶・味噌醤油醸造等で生計を立てていた半士半農の姿であった。郷士は原則外城を離れることは許されなかった。まさにその土地に骨身を埋める覚悟で国境警備にあたっていた。
 麓近くに九州新幹線が通っており、時折聞こえる轟音が異質である。しかしそれ以外は常に静けさが支配していた。
 



 



 旧菱刈街道に沿った宮路邸。薬医門、石塀が見事に残っています。 麓地区北端付近の町並






 東西の通り「三原小路」の風景。経年した石垣は自然の一部としてよく調和しています。


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